雑記帳

なやめる青年のはきだめです。

ボキャ貧

先日は北斎で舞い上がってしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。
 

ブログって、SNSが過剰に発展して発達した今の世の中ではどれほどの地位を築いてるんだろうか。辻ちゃんのブログが良くも悪くも有名なのは知ってる。

ブログ、いわば日記…と表現するとちょっと違う気もしてしまう。
個々人が、その情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さ、そして何よりも速さについて、思い思いに書き留める場所。文字数制限は無し。画像や動画も貼り付けられる。誰でも閲覧可能、コメントも受け付けられて双方向性もある。
書き手によっては日記にもエッセイにも、あるいは小説や論説にだって様変わりする。織りなすものは人それぞれ、千変万化、十人十色、多種多様。そんな不思議な場所だなあ、と、始めてみて思った。いまはnoteってのもあるか。人の頭の中を簡単に覗けるネット社会・時代ってなんだかおもしろいな。
と、そんな薄っぺらな感慨にひたる傍ら、直面している悩みがある。
 
ボキャブラリーが極貧だ…』と。
 
文章を書くのは不得意ではない。より厳密に言うなら、日本語っぽい文章に推敲するのは不得意ではない。ただし、その中身がからっきしダメなのである。語彙が少なすぎる。面白みもへったくれもない駄文しか書けない。直面とは言ったけど、悩み自体は昔からある。ことごとく読書を避けて生きてきた弊害である…orz
今までまともに読んできた本といえば、ハルヒ物語シリーズ禁書目録くらいである…全部ラノベじゃねーか!しかもすくなっ!
いや、ラノベ自体馬鹿にしてないし、馬鹿にできるほどものも書けない。
もちろん当時は面白がって読んでいた。
でも、あれって、中高生(あるいはませたクソがk小学生)が読書の足掛かりとして読むものとしての役割も担ってて(そう感じていて)、あれのみをもって「本を嗜んでいる」というステータスを付与するには少々、というかだいぶん足りない気がするのよね。
当然面白いものは面白いし、勉強になるもの考えさせられるものウィットに富んだものクソばかばかしいもの、いろいろあって入り口として最適だとは思うんだけど。。
読書って言い張れるのは、純文学からかなぁ、って、凝り固まった考えがあるわけです。
ラノベ(あるいはケータイ・WEB小説)と純文学との間にどういった差があるのかなんて、俺の足りない脳みそでは説明の施しようがないけれど、なんとなーく、そこに違いを感じ取れたりしませんか?
お堅い設定(?)お堅い文章(?)、挿絵もなければ美麗な表紙すらない、登場人物も情景もなにもかも、全て筆者の紡ぐ言葉を手がかりに、読み手自身が次から次へと想像していくあの感じ。やっぱり純文学から、こそが読書だよ、うん(自分で納得するな)。
ラノベも読みやすくていいけどね。活字に慣れてきたら、その先に行くときっともっと世界が広がると思う。

そしてここで振り出しに戻る。前述の通り、当方生まれてこの方ラノベしか読んだことないといっても過言ではない、であるからして、ことごとく文字での表現力に乏しいの、どうにかしたいというわけです。
もちろん、ラノベでは語彙も表現力も養えない、と断じてしまうには早計な気はするけど、それだけでは絶対的に不十分な気がしてならない。

どうしたら、世の文筆家のような綺麗で、壮大で、繊細で、魅力的な文が書けるんだろう。
そう思った時、幼少期・思春期に(混じり気のない)文学にどれだけ触れてきたか、っていうのが大事になってくるのかなあ、って。
『本を読みなさい』って、しきりに…というほどではないがことあるごとには言われてきたセリフだけど、今振り返ると、とても大事なことだったんだなあと、少なからぬ後悔を抱く今日この頃。働き始めて、自分のために取れる時間が絶対的に少なくなったとはいえ、まったく捻出できないわけではない現在、今からでも活字に触れる時間を作るのは、自分というひとりの人間にとって(そして自分のこれからにとっても)大切で、それは極めて有意義な時間になるんじゃないかなって、そう思うじごろんでした。



教養、だいじ。